わからないままにしておく

わっ、と不安がやってきたときの対処の仕方は時が経つにつれて変わってくるものらしい。

高校を卒業するまでは、どう対処すればいいかわからなくて、問題を全く別のことに置き換え、ないことにしていた。

大学に入ってからは、それを過去のトラウマの影響として処理していた。どうしようもないときはガバガバ薬を飲んでなんとかしていた。問題を多少言語化するようになった頃だ。西尾維新ファッカーであることは十年後には恥辱の記憶になるのでしょうけど、必要な時期だったですよ。今でもアワーてなると突然新刊買ってしまうの恥ずかしい。しかも、やっぱり西尾維新だろとか思ってしまうから、更に恥ずかしい。

とはいえ、今は、トラウマとかこれまでの経験がギャーのトリガーになると考えるのは幼いなあとおもう。原因となるひとつのものを手に入れたところで問題は何も解決しないわけで。

今は、問題が問題になってる関係性の組み方を変えた方がいいなぁと思っている。そのネットワークがすこし変わってきたとすれば、それは明らかに近い人のおかげであるので、思考するだけで変わるものでもないのかもしれない。このへんは今のところあんまり救いがないですね。課題。


年取って、こういう状況はわたしにとって地雷というパターンがわかってくると事前に対処することもできる。けど、トラウマ分析をしすぎると、今はその状況でもないのに、再び襲ってくるかもしれないと防御してしまうことが増えた。これはこれで身動きが取れなくなる。

たとえば、その近い人が何しか不機嫌な様子だと、わたしはめちゃくちゃ挙動不審になる。わたしがなんかしたかなとおもうから。そのうちに、わたしのせいではないのかもとわかってきても、その可能性は消えないので、微妙にびくびくしている。

以前それがしんどくて、「よくわからない」と言ったら「なんかあった?って軽く聞けばいいよ、そのときあったことを言うよ」と言われる。なるほどねー。「嫉妬もそうねー、そのときにパッと嫉妬しちゃうわあって言った方が後腐れない」とのこと。発明だねえ。後者は全然うまくできませんが、前者はそれなりにやってる。


ここまでで何を言いたいかまとめると、漠然とした不安を言語化する作業をひと段落させても、日常の小さな不安はころころやってくる。わたしに不機嫌の原因はないのに自分のせいかもと思って不安になることはあると。

そのときの対処は、細かいルール決めも有効なんだけど、わたしがこれから大事にしたいのは、わからないことをわからないままにすることなのだとおもう。


わたしは、なぜかケンカとか不機嫌とかが異様に怖いので、丸く収めようとしがち(かつては自分を出さないことで対処してたので後々残された負荷が高すぎた)。だけど、人と一緒にいりゃあ、そんなこと絶対に起こりうるものだ。

頭で理解していても、なぜか不安とか恐怖が出てくる。矛盾しているので、そう思うことをおかしいとすると、負の感情はもりもり増殖していく。

理解と感覚は別ってことをひとまず受け入れようとおもう。

不安が生じたら、どうにかしたいと思ってしまうんだけど、結局それは人の感情とかをコントロールしようとしているのだとやっぱり思う。この傲慢さも頭では重々わかっている。でも、不安が残るのがしんどくて、態度に出ていたのでしょう。申し訳ない。


わたしは、人のことがわからない。本当にわからない。知りたいと思うのは自由だろうし、その働きかけがときによい方向にいくときもあるだろう。けど、何もかもを全てわかろうとするのはやっぱり支配でしかない。傲慢。自分の不安を押し殺したいだけの身勝手なものだとおもう。

わからないままにするのは、たぶんめちゃくちゃ怖いことなんだとおもう。わかったほうが整理がつく、準備もできる。怖いことは生理的に逃れたくなるものだろう。

でも、本当にわかってることなんてほとんどない。わたしは明日死ぬかもしれないし、明日大地震がくるかもしれないし、朝起きたら65歳になってるかもしれない。頭ではわかってるけど、わたしは全然これらのことをわかってない。納得できてない。だから、シャンプーを買いだめするし、来月乗る飛行機を取ってある。


その不安定な世界に身を委ねることは、とても怖くて、ぷるぷるするけど、それでもまた明日がやってくるのでしょう。