文体

 植本一子さんの本をいくつか読んだ。彼女自身が写真家であり、ECDそばにいて、そして彼は死がすぐそばに迫っていて、彼女の置かれた状況もその率直な心情の吐露も、読者に文章を読ませる理由ではあるだろうけど、なによりも、彼女の文体がそうさせるのだろうと思う。文藝に日記が連載されている。写真家あるいは作家として一瞬の出来事を切り取ることに賭けていることが、文体にも滲み出る。

 暮しの手帖の『戦争中の暮しの記録』を読む。戦下における「ふつうの人」たちの語りは、あれだけの膨大な分量があっても読まされる。あとがきに花森氏がかなづかいや書き間違いを直さず、一つの法則によらなかったとしている。

その多くが、あきらかに、はじめて原稿用紙に字を書いた、とおもわれるものでああった。原稿用紙の最初の行のいちばん上のマスから書きはじめること、題を欄外に書くこと、一見して、文章を書きなれないというより、むしろ金釘流といったほうがぴったりする書体、といったことからも、これは容易に判断できたことである。

じつをいうと、誤字あて字が多く、かなづかいも、まちまちの一つの文章を、試みに今様のかなづかいに改め、今様の漢字使いに書き改めてみた。すると、あれほど心動かされた文章が、まるで味もそっけもない、つまらない文章になってしまったのである。一見ちいさなことのようだが、これは、文章というものに、大きなかかわりあいのあることだとおもっている。

  読まされてしまう文章は、書いた人の特権性や歴史的価値に関係のないことなのだとおもう。そういう文章はおそらくだが、書いた方も、書かされてしまった、あるいは書くしかなかったといった切迫感があるのだろう。日記を日記として書いた感のあるものはそこまで読めない(有名な人だからということで企画されたであろう日記本とか)。

 そして、こういう文章を読むと、うあ!となる。情感がぐらぐらする感覚。一見すれば、素直な文章にみえたり、日記であったりするので、わたしでも書けるんじゃないかと思われてくる。しかし、日記を書くのはむずかしい。書き続けることも、書く内容のなさも、「まあ今日はいいや」とか「書き忘れた」につながっている。

 そう考えると、読まされる文章に込められた文体は、素直な文章に見えるだけで、自然とできあがった独特のリズムがあり、ことばの選び方があり、そのときの書き手の気持ちとどこまで向き合えているのかによるのだろう。

 

 わたしが気が向いたときに日記を書いていておもうのは、わたしはネット文体に慣れすぎてるなということと、わたしがわたしとして書く意味のなさに打ちのめされることです。

 暮らしにまつわる言説をネットや本や時代を問わず、いろいろと読んでみた時期だったんですが、結局、わたしは掃除はゴミが目に入ったとしても気が向くまでやらないし、買い物に行くのがめんどくさくて余った野菜をてきとーに炒めて食べているし、お菓子を作ることはあるけど、卵一個足りなくてもそのまま作っちゃうし、そのせいでご飯やお菓子がそこまで美味しくなかったり、靴下の裏にゴミがついていたりする。生活を慎重に行うことはできないとわかった。それは知ってたけど、再認識した。

 ぽけ〜とコーヒー飲んだり、たばこを吸ったり、ぽけぽけ〜と過ごせる時間はそれが続く限りにおいて、よいものではなく不安でしかないということ。旅行している間だって、三日目にはそわそわしてくる。その一瞬に耽溺できないので、そっちの世界には乗れないんだなということがつくづくわかる。山奥で育った人と銀杏探しをしていても、わたしが一個見つけるあいだに彼女は十個見つける。「そんなんじゃ山行ったら死ぬよ」と言われる。ですよね。そうおもいます。

 

 この前、働いているとこでケンカして、わたしはそんなに怒りたいことないなーとおもった。この世界とのアクセスを透明にすることで、いろんなうやむやをなんとかしているということでもある。別にそれが、いいことでもわるいことでもない。ただ、そういう態度は、わたしとして語ることがほんとうに少なくなっていくということでもある。媒体に期待された文章を書くことができても、それがわたしの言葉ではないので、どんどん浮ついてくる。とにかくいまは、ふわふわした状態で、ふわふわしているということを書くしかないのだろう。

 あと、そのケンカ相手には、一緒に働く人としてどうかと思う点がいくつかあるということを忘れないようにしようとおもう。そして、わたしはやっぱり介助をやりたいわけではねーなと思った。障害があるからどうだとか、ひとりじゃ動けない話せないとか、結局は知らねーよ。そんなん関係なく、みんな死ねっておもう。みんな死ねとおもうし、みんな生きててとおもう。明るい気持ちで、はやくしにたいとおもう。はやくおわってしまいたいとおもう。おめえのことはどうでもいいわといいながら、たぶん、人のことを、人の醜いところをとてもあいしているとおもう。

 人は思うようにならないというバグだけは信じている。ただ、それを信じることは、問題の論点が違うのに、ただ怒りをぶつけるためだけにケンカをふっかけられたり、人格をなじられたりすることを含む。全然、いいことばっかじゃない。誰かのおかげでこういうふうに考えるようになったとは、いまはまだ言えない。しらないよ。関係ないとすらおもう。なんにもわかんない。