穂村弘と西尾維新の文体

 短歌を読んでいる。『桜前線開架宣言』や某誌の短歌特集が出たときに一通り読んでみたが、あのときはピンとこなかった。穂村さんは「ラジオ体操の歌があんなにおそろしかったのには意味がある。二人乗りの自転車が眩しい生き物に見えたのには意味がある。女の子に口が利けなかったのには意味がある。自分の考えが自意識過剰な怠け者の妄想としか思えないことには意味がある。世界の不気味さにはすべて意味があるのではないか」と『短歌という爆弾』で書いている。

 穂村さんは、現実とアクセス不具合であることを、短歌という他者に昇華する。ことばをつむいでいく動機は、自分の本が(自主出版ではなく)本屋の棚にあること、ひいては彼の歌が文学であること、そして他人が僕を好きになってくれることなどにあるようで、いずれも他者に審級がある。だからこそ、常に漂う不安。無人島にいて、もう外の世界に人がいないとなったら書かないと言っていたのはそれをよく表している。

 

 それに対して増田の記事。名文だあ。

行動に理由なんていらないのだ、と。行動の理由なんて事前にいくら用意したところで、たいていの場合、それは建前やこじつけでしかなく、本当のところは後になってからしかわからない。ミネルバフクロウなのだ。後になってからしかわからないなら、後になってから知ればいい。いまは行動するだけでいい。そう思う。

特別なことなんて何も起きなくていい。夢も希望もなくていい。

人生に物語は要らない。

 一方で増田は、享楽の仕方がわかっている人だ。「人生に物語は要らない」は、あらゆることを物語化していく穂村さんの対極だろう。「物語は要らない」ことの条件は、物語にまつわるアクターのネットワークから離脱することだ。たとえば、

1.時間軸の連関を断つ

2.読者という他者を必要としない

3.トラウマをキャラ化しない=享楽の地点にしない

 トラウマ*1が物語化されるのは、そうでもしないと自己が消滅するからだろう。病気「になる」ことやマイノリティ「になる」ことも物語にしていく一つの手がかりだ。Xという原因の結果としてY→Zが生じる。親が巻き爪の遺伝を持っていたから、わたしは巻き爪で、人差し指に食い込んで、痛い。

 自己が消滅するほどにアイロニーにもユーモアにも落ち込まない、享楽の地点にアクセスする(cf『勉強の哲学』)ために、穂村さんは物語を紡ぎ、増田はいま行動する。どちらも鬱屈した暗さはある。さらに前者は、不安も変わらずにある。穂村さんは精神分析的で、増田は認知行動療法っぽい。

 

 そう考えると、穂村さんと西尾維新は似ている(なので、わたしは愛憎半ばに、彼らを愛してる)。トラウマをキャラにすることを、現実世界との接点とする。そのことで、穂村さんがどこかで書いていたように、真の内気さは失われ、その代わりに「ベッドで菓子パンを食べる人……」を声をかけてくれる人や居場所が生み出される。西尾維新は、掟 上今日子に忘却してもらわないといけない。

 そのことに、どうも限界を感じるのだ。愛憎の「憎」の部分。

 

 増田と穂村さんの間で、どう足掻くかについて考える必要がありそうだ。課題。

*1:機能しなくなった前提、と定義しておく