うじうじしてる

 何かを書いたり、絵を描いたり、写真を撮ったり、服を作ったり、雑誌を作ったり、映画を撮ったり、音楽をしたり……そういうことを楽しいと思うことがあるのだろうか。

 わたしは何にもできない。本を読んでる、うじうじと。

 

「わたしは何者かにならなければならない!」という強迫観念めいた話ではない。人が何かをしているのは、あるとき、たくさんの可能性の中から一つを選んだその結果ではなくて、そこに至るまでの過程で生じた潜在性があっただけの話だと思う。郡司さんの言ってることをこう解釈した。おそらく、わたしはひきこもりポテンシャルは高い。

 かといって、生活礼賛みたいなのもバカバカしい。生きてるだけでいいんだったら、うじうじしてねえよ。これは、最近のアーカイブ系のアートやナラティブセラピー、いくつかの生活史研究にもやもやするポイントだったりする。

 

 ちょうど先ほど、山内志朗さんが近いことをツイートしていた。

 

 「そういう営み」からはすでに離脱した(と思っている)のだけど、介助において、つまり彼女の編集者になるにあたって*1、何をするか、どことつなぐかを考えることは結局、自分が何を楽しいと思うかによるみたいだ。わたしは本を読むのが楽しいけど……一緒に読むか?

 あと、そもそも介助の仕事を「好き」でやっているわけでもない気がしている。これしかなかった。西尾維新*2が小説を書くしかなかったように、介助しかなかった。

 

 少しまとまりがなくなってきたし、まだ考えも途中なのだけど、眺めてみると、人が創造するのは完全なる意志によってコントロールされた結果ではなく、「偶然」とか「結果的にそうなった」とかそのようなものなのかもしれない。けど、「そうであるならば何もしなくていいんだ」は違う。その微妙な隙間を探っていく必要があるのかもしれない。はー、もういやじゃ。

*1:CIL系の介助と違って、介助者の介入する余地が多いのですがこのあたりの話に興味がある人は少ないと思うので割愛

*2:最近読まなくなった