汚れの焦点

 初めて都内で住んだボロい家は、風呂が汚く床もぬめる。たまに実家に帰って一番にやることは何より風呂を沸かすことだった。掃除は動くスペースを作ること程度にしか思っていないわたしにとって、排水口は今でも敵である。あいつは放っておくとすぐにモネラ化する。排水口はマジで怖い。外出中でも排水口を見かけると、焦点をぼかす癖がある。

 仕事先は一軒家なのだが、ある日、ホワイトボードに書いてあった伝言に驚いた。「ネズミ出没注意。窓からちょろちょろっと入ってきます」。ネズミかー。高校に入るまでゴキブリも見たことのなかったわたしにとっては、ネズミは想像上の動物である。ミッキーマウスピカチュウ、あとはトムとジェリーのどっちかか。この前もぐらを初めて見たときに、「もぐらって汚れてるんだな」と瞬間的に思った。土の中を動いているんだから当然なのだが、でも、それは汚れとは違うと思い直した。それまで、汚さについて考えたことはあまりなかったことに気づいた。

 この前遊んだ小学生は、昼食を食べる場所を決めているときに、「XじゃなくてYがいい〜」とお母さんに主張していた。お母さん曰く、「Xのトイレはぼっとん便所だからいやなんだって」。中学のときに新潟の体育館でトイレを使ったときに、初めてぼっとん便所に対面した。底なしの暗闇が怖かった。得体の知れない何かにトイレの底まで引きずり下ろされる気がしたし、なんとなく臭い気がしてずっと息をしないでいた。

 同居人が、シンクを洗うたわしでフライパンをごしごししていて、「いや、ちょっとまって、たわし使うのか」と止めに入ったら「これは油を使ったから、汚れてるでしょ。汚れてるものを洗うのはたわしでしょ」との返事。そういう考えもあるか……。

 

 汚れの感覚はそれぞれである。汚れは、外部と内部の境界なのだろう。堪え難い一瞬のあとに、自分の世界が微妙に揺らいでいく。汚れへの抵抗感は、汚れそのものの否定ではなくて、わたしと思っていた内部が侵略されたことへの驚きなのだろう。汚れとしての外部は完全に受け入れられることはなく、緊張と弛緩のあいだで受け止める。たまにたわしでフライパンを洗ってるシーンを見かけると、先の会話を思い出して笑ってしまう。

 

 人と暮らす、子供を産む、地方に住む、古民家に住む……これらは、おそらく得体の知れない汚さと一緒に住むことではないのか*1。地方でクリエイティブしていくぜ的な記事をみて、思った。インスタグラムで散見される「丁寧な生活」は、生活の外部を編集し、ないことにしている。でも、実際は生ゴミは臭いし、虫は入ってくるし、毎日料理すると疲れてくる。郡司ペギオ幸夫氏の書いたものを自分なりに解釈するなら、その生活にある「徹底した外部」を領土化しないままに、内部だ外部だと言い切らないままに、どうやっていくか。焦点をそらすことや息を止めることのような、その仕方を考えたい。

 

*1:汚れと言えてしまっている時点でそれは結局外部では、という問題は残る。考える。