彼は、最近お風呂で髪を洗われることがいやで、全力で泣いて抵抗してくるそうだ。トイレもいや、歯磨きもいや。災害用の水を使わないシャンプーを彼が寝ている間にしている。おむつもパンパンになるまで、とりあえず放っている。歯磨きは……まあ生え変わるし、いいかと思っているのだろうか。

 半年前は、使える言葉も少なく、大きな声でウアーと何時間でも泣き叫んでいたが、今はしくしく泣きながらも「ごめんね」「むりなの」などと気を使うような言葉を組み込んでくる。彼がそれをできないことに申し訳なさを感じる必要はおそらくない。でも、彼は親や介助者の顔色をよく観察しているし、自分ができないことをよくわかってしまっている。彼と同い年の人たちに流れる時間の速度が違っていることにもよく気づいている。

 私はトイレで排泄ができる。漏らす前に行くことも大概できる。引きこもっていたときは数ヶ月風呂も歯磨きもできなかった記憶があるが、最近は、さぼりたい日はあるものの、なんとか毎日やっている。何かをできるようになった過程に理由をつけられるとしたら、それは事後的なものでしかなく、できないことに理由なんてない。なんか、できない。その非合理さ、非効率さを非難するのは、あくまで「大人の都合」だ。

 これを前提として、日常生活に必要な行為のいろいろをできないという人たちとどう関わればいいのだろうか。パチンコがやめられない人やアルコール中毒、薬物依存の人たちにそれらをやめろということと、彼らにADL(activities of day living)を強要することはどうちがうのだろうか。

 自分で体を動かせず、知的にも重いとされる人たちの中には、生活していくほとんど全ての行為を介助者のサポートを受けながら過ごしている人がいる。寝返りは打てないし、歯は磨けないし、排泄も一人ではできないし、かゆいところに手を伸ばすことだってできない。しかし、夏場のおむつは蒸れる。だから嫌な顔をする。本当は「放牧」(=吸水マットを敷いて解放すること)してほしい。夏場のおむつは暴力だ。「大人の都合」という暴力であることを隠された介入は常にある。それでも誰かに支えられ、同時にその人のことを支えながら、生活している人がいる。

 あなたも一度、隣の人に一食分食べさせてもらうという経験をするといい。わたしは冷めたごはんがけっこう好き、だからごはんは最後に食べたいのに、三角食べさせられる、スプーンが入り口付近で去っていくから飲み込みずらいなあ。人には人のリズムがある。自分のリズムでできると落ち着く。

 機能的にできるということと、さまざまな理由でできないことは、同じだけ重い。前者を重視して「できるのだからやるのが普通でしょ」というのはわたしにはやっぱり受け入れられない。でも、自分のリズムでできると楽だよ、とは思う。

 自閉症の世界を翻訳する作業は大事だ。でも、彼らはすごいと囃し立てる言説は、ほとんど彼らを介さない場所で生じている。ある人の視点からしたら「ぼくにはこれができない、あいつよりもできない、もういやだ」でしかないことだってある。わたしの言葉はほとんど届かないけれど、それでもわたしができることは、「ぼくはこんなことができるんだぞーへっへっへ」の領域を広げることなのかもしれない。

 大変なことから語るのではなく、すごいんだぞー楽しんだぞーって言うんだ。