20160204

 先月末、映画を観るために突発的に京都に行き、上演時間までふらふら鴨川付近を歩いていたら、小さい子供が「そんなことしたら、わたしもう」とお父さんに言った声が耳に入ってきて驚いた。子供でもこんな言い回しを使うのかと思う一方で、一体お父さんはどんなことをしてしまったのかが気になって、二人の背中をじっと見ていた。

 「そんなことしたら、わたしもう」ーー目の届かないどこかへ行ってしまうのだろうか、お父さんのことを大嫌いになってしまうのだろうか。ただ、お父さんが車のポケットに隠しているチョコを全部食べられてしまうだけで済むだろうか。お願いだから、さみしいから、悲しいから、もう「そんなこと」しないで。口をつぐんだ、その子の隠されたこの一言に、とっさにその言葉が出てきてしまえた幼さに、(本当はただ京都まで足を運んで、そろそろ家に帰りたいと思っていただけなのかもしれないけれど)わたしも遠くまできてしまったなと思わずにはいられなかった。

 二十を二つもすぎた人間がそんなことを言っても、よほどのことでない限り、「それが、あなたの下した決断ならば」と返される。話すことは面倒だ。面倒だというのは、本当は嘘で、誰も聴いてくれないことがさみしくて、悲しくて、人は沈黙を選ぶようになる。

 

 もしもし。君はいま何をしていますか。

 

 人は自分が経験したことのない出来事に遭遇したとき、すでにそのことを経験した人が見つけた答えを知ろうとする。学校に行かず引きこもって、それでもなお社会に復帰した人がいたとしよう。その家族には、おそらく、たったいま引きこもってしまった 子供の話がいくつも舞い込むように出来上がっている。多くの場合、それは本人からではなく、母親から尋ねられる。どうしたら、元に戻りますか、というニュアンスを込めて。それに、その家族の母親の方はこう答えた。「ただ、待つことしかできないんだよねえ」。そうでしょうなあ。ただ、聴くことしか、できませんねえ。しかし、困っている母親は「あなたの家とわたしの家は違うじゃない」と、知りたかった答えがなかったことにがっかりする。

 

 君の目の前には、いま何がありますか。

 

 「勘違いしないでよね」と男の子に言われて、おおっと感じた。それは女の子が使うセリフでしょうと笑ったら、「言ってから、そう思った」と恥ずかしそうにいうその人の「子供」っぽさに、最近いい言い回しを聴くことが多いことに気づいた。

 中学、高校と、暗記科目が苦手だった。文字を一字一句丁寧に読むことが苦痛で仕方なかったから、目がじっと、ゆっくり進んで行くことに耐えられなかった。人の顔色を伺うとか、空気を読むとか、場をまとめるという意味での「大人」らしさはあったが、とにかく耐えることができないところは今でも「子供」っぽいと思う。本を乱読できるのは、ある意味で、心底丁寧に読むことが苦手だから。仕事となれば、話は別だけど、根本的に研究者には向いていないし、詩人には程遠い。言葉は待ってくれないから。でも、聴くために待つことだけをしていたいと、ただ祈るばかりです。