20151108「イケメン×2.5――境界、まなざし、在/不在」で感じた、ひとりごと

 ユリイカ2014年9月増刊号「特集 イケメン・スタディーズ」、同誌2015年4月増刊号「特集 2.5次元」の二冊がきっかけとなって、筒井晴香さんが中心となって主催されたUTCPの企画です。詳しい内容は、そのうち、UTCPのブログで公開されるとのお話でしたので、そちらをご覧ください。

Blog | University of Tokyo Center for Philosophy

 

 全体を通じて、大変面白いセッションでした。こうした回や上の雑誌を通じて、「イケメン」「2.5次元」を批評すること、その意義を問うことが今以上にされていってほしいと陰からひっそり応援させていただきたいという一心です。

 今回心に残ったのは、二・五次元という言葉が表す領域の広さでした。今後の二・五次元関連論考を慎重に読み解くうえで、自分のために議論を整理することがこの記事の目的です。ご登壇された皆さんのお話が面白かったということを前提に、議論し尽くされてなかった点で自分が気になったものだけをメモにしてみました。

 

二・五次元を構造化する

 今使われている「二・五次元」という言葉には、二つの構図が混ざり合っている。

 一つは、二次元のキャラクターが三次元のイケメンの身体に「受肉」し、それをファンダムがまなざす構図。もう一つは、三次元の人間が、なんらかの方法で二次元に近づいていくという構図だ。要するに、三次元から−〇・五するのか、二次元から+〇・五するのか、というベクトルの方向性の違いを指している。ただし、どちらもベクトルの大きさに深い意味付けはない――両方とも、「二次元と三次元の狭間」に存在するという点で共通している。これが、ややこしさの要因ではないだろうか。

 

 岩川ありささんの発表にあった、キャラクターと物語を意味付けする「まなざすもの」たちの話は前者にあたる。言わずもがな、二・五次元ミュージカルもこれにあたる。役者は洗礼を受けて、キャラになる。ステージの構造は、観客にも「観客」という役を与える。その世界を成立させるには、観客も含めた役者がキャラとして受肉することと、それがまなざされることが必要だ。こうして生まれた物語の中で、キャラクターになっていくまでの過程を見守ることになる。

 ただし、明石陽介さんのお話にあった通り、アニメ・マンガ・ゲームを実写化、舞台化することのすべてが、ここで定義されている二・五次元に含まれるわけではない。その差は、役がキャラ≒「器」としてあるかどうかが重要なのかもしれない。今日の話だと、岩下朋世さん(や藤本由香里さん)の考えにつながっていくものだ。*1

 

 三次元から次元を下ろしていく構図は、石田美紀さんの発表にあった、声優CDがわかりやすい具体例になると思う。キャラクターの世界に、自分をのめり込ませる行為のことだ。その媒介となるものは、イヤホンやヘッドフォンであり、ゲームであり、夢小説なのだろう。もちろん、このほかにもたくさんある。

 

乙女ゲームは、なぜ居たたまれないのか

 石田さんは、乙女ゲーム(夢小説も同種だと思う)は居たたまれなくなるのか、という問いに、「能動性を奪われる」ことと「一つの物語に規定される」ことの二つを挙げていた。後者は、BLとの比較から出てきた言葉だ。BLでは、読み手がその物語に事実上介入しない。それゆえ、キャラクター同士の多様な物語を、読み手がいかようにも読み込むことができる。一方で、乙女ゲームは、キャラクターとプレイヤーの恋愛関係に固定されてしまって、なんともいえない気持ちになる、とそのような意図でお話されていたと思う。そこでキャラクターと紡がれる物語が個人的すぎるがゆえに、居たたまれなくなる。

 この点は、時間の短さゆえに議論ができなかっただけだと思うが、乙女ゲームのプレイヤーにもさまざまな受容の仕方がある。まず、プレイヤー名の部分に自分の名前を入れるとは限らない。そして、主人公の女性キャラに感情移入するとは限らない。主人公の友達キャラに感情移入する、もしくはモブの名前を入れることで、主人公たちの成長物語を楽しむという親目線の楽しみ方もある。この話は、この記事がまとまっていると思うので貼っておきます。

【オトナの乙女ゲーム道】第18回:乙女ゲー主人公の「変化」について ― 自己投影の対象から1人のキャラクターへ | インサイド

 

 BLが、キャラクターたちを俯瞰してみる立場や、受けに自己投影する立場など、様々な読まれ方をするのと同様に、乙女系も多様な読み方があることは注意すべき点だろう。

 

キャラになりたい、という欲望

 というような刺激的な議論があって、とても有意義な三時間だった。

 個人的には、石田さんのおっしゃっていた受容者がキャラとなり物語にコミットする欲望を、さらに展開させてみたいと思いました。要するに、この欲望は、受容者の話だけでなく、役者の欲望でもあるのではないか、と思っていたりいなかったりします。

 ユリイカの回し者ではないつもりですが、2015年9月号「特集 男の娘」で、大島薫のインタビューが掲載されています。彼(女)は、キャラになろうとした人だと読み解くこともできそうです。「男の娘」は、ジェンダー/セクシュアリティの問題だけで考えてはいけない。なぜ、人はキャラになろうとするのか――こんな視点から「男の娘」を見ると、同じ回路でイケメンたちの見え方も変わってきたりしないでしょうか。

 キャラになるイケメンと、キャラクターであり続けるイケメンの断絶は、私たちのまなざしの有無だけが生みだしたものなのだろうか。

*1: 二・五次元ミュージカルについてのより詳しい話は、上に紹介した二冊や今回ご登壇なさった方々のお話をご参考ください。この記事では、そこには特に踏み込まないでおきます。