帰り道にけんかした。最近、何を言っても「いや〜」「ダメ〜」としか返してこないのに加えて、人を試してくるようになった小さい人が、車通りの多い危ない道とわかってそちらに行こうとしたので、「やっていいことと悪いことがある」とキレてしまった。

 いろんなことがわかってきていて、話したり自分の気持ちを伝えてくれたりすることは生きるなかで大切だから、わたしへの抵抗は全然いい。むしろ、子供とか障害とか、いろんなカテゴリーを脇に置いて、ただその人と向き合おうとするときに、素朴に「無視すんじゃねえよ」とイラついた自分にへこんだ。

 行きたい道を行けばいい。ただ、わたしの動きは、彼女と彼女の家族と事業所とその道をいく車に影響される。「その道を行かないで、こっちの道で帰って」と言われているときに、彼女の気持ちをどこまで汲むことができるのか。叱るべきことなのか、どう叱るべきなのか、くよくよ悩む。

 

 お父さんと二人で暮らす人がいる。

 お父さんが亡くなった二人兄弟がいる。

 

 彼らが一人暮らしをしていくために動こうとする介助者たちもいる。けれど、トイレに行って、お風呂に入って、服を着て、歯を磨いて、ご飯を食べて、その日一日をなんとかやっていくために必要な介助がある。親によって、その子によって、どうしていくかはそれぞれで、こうしたいと思っていてもそこまで及ばないでその日が終わることもある。歯ブラシにかびが生えてくる。足は魚のウロコのようにカサカサになっている。

 わたしは、やっぱり根本的には当事者の外にいて、何ができるんだろうなあと思う。目の前のことをしていくしかないけれど、そのことに今は、やきもきする。

今年はめちゃくちゃ人として終わっているのをなんとかしようと思う根本的に。アー。

 

大学生くらいまでは、相手の期待をフレームに設定して、そこから外れると「じぶんしね!」で爆発していた。相手の期待フレームは、自分で判断をしない。しかも、その結果として起きたことの責任を相手になすりつける思考なのでクソ。自分のこととして判断しないといけないと思った記憶がある。

それに気づくまでに時間がかかったので、「人は、その人の利益のためにしか人を使わない」という謎思考が育つ。どういうことか。「ある目的Xのためにわたしを利用している→Xさえできていればいい」という考えによって、相手が気を使ってしてくれたことやわたしに対して我慢してくれていること、ある意図があって伝えたこととか、そういうすべてにわたしは気づかない。だから、わたしは図々しく見えることもあるし、人を見下しているように見えることもあるだろうし、気使えないやつってことにもなる。

そういうやりとりの背景にある相手の思考への想像力が欠けているにもかかわらず、相手の期待フレームは癖として残っているので、要求に応えられないと逆ギレする。前はひたすら自虐していたのが逆ギレに変わっただけで、むしろ悪質になっている。

 

また、自分で判断しないことへの反省がトンチンカンだったので、自分の思ったことを言ってしまう。思い留まれていない。

だから、一歩とどまる。相手の期待フレームは、みんながわたしを攻撃の対象としているように錯覚してしまう。けど、多くの場合は攻撃しているわけではなく、あらゆるやりとりにその人なりの経験からきた思考がある。そのことを考える。その上で、わたしが何を言うのか、何をやるのかを真剣に考える。会話っていうのはそんな容易にできるものではない。

あとは、自分が見ていないことについて何も言わない。ここは当たり前だけど。自分で判断するということは、人の判断をそのまま自分のものとはしないことなので。ほんとにほんとに。

バカで自信がないことを開示しているだけのバカ振る舞いは本当にやめてくださいわたし。そういうわたしは墓場へさよならー。甘ったれてる。クソな自分にしにたくなるが、いろんな人に申し訳ないので、直す。

 介助の仕事をすこし離れて、パン屋で働いているのですが(どうして?wと聞かれるのだけど、わからないので聞かれても困る)、その仕事を学習していく仕方が違うのが面白い。

 介助は、体調・天気・気分など様々な要因によって、双方の応対が変化してしまう。こちらが体調が悪いとぐるぐる走り回るのはむずかしいし、昨日誰かとケンカしたのが尾を引いていれば、テンションは低く考え込んでいる。ただ、人の抱え方とか体位交換とか固定された工程もある。このジャンルで専門家と名乗ることができるとすれば、その固定化された範囲について、より詳しく知っている人ということになる。

 介助に関しては、限定された範囲を持たない部分が倫理の問題と直結しやすい。以前にブログで書いたけど、学習過程において範囲が限定されないことは、当人の「配慮のなさ」として酌み取られる場合もある。たとえば、関係さえできてくれば、ちょっとしたミスなら「あ〜まちがえた〜」といじってくれる場合もあるし、「まあ次頼むね〜」くらいで済んだりする。一方で、「人間としてクソだから」と捉えられる場合もある。今のところ言われたことはないけれど。

 わたしがしていた介助の仕事では、その日あったことをつらつらと書き留めて、その報告を全員が読めるようにしていた。わたしは、「慣れないのでむずかしいです、まちがえるとくよくよします」と情動の変化についてかなり詳細に記述するようにしていた。限定されない部分について、ネガティブに捉えられると厄介なので避けたかった(悪意はないよアピール)。相手がどのように感じているのか、不安なのか、楽しかったのか、それを伝えることは行為に文脈を作ることのような気がしている。たとえば、ミスをしたときに、単純に事実だけとれば、失敗して、思っていない結果が生じたことになる。だけど、その後反省しているのか、申し訳ないと思っているのか、あんまり気にしていないのか、その人の語りの中で捉えることは、単純な失敗で終わらず、時間の幅をもって受け止めることができる気がする。

 パン屋は、何をするべきかが極めて固定化されているので、こうはいかない。客の出入りによって量的な変化はあれど、基本的に作業工程は決められている。だから、失敗は失敗以外の何ものでもない。さらに、その人がどうして間違えてしまったのか、そのことをどう捉えているのかについて語る機会は極めて少ない。だから、失敗が続くと、「こいつは使えねーな」で終わってしまう。

 わたしがゆるゆると介助を続けているのは、仕事が作業的でなく、ともすれば「使えねーなー」になってしまう状況をめちゃくちゃ肯定したいからなのだろうと思いましたよ。使えないものたちのなかに何があるのか、決められたものからはみ出てしまうものといかに付き合っていくのかを考えることこそが面白いのだろうと思う。こういうのを相対化するために、パン屋やりはじめた気もするね。

金がない

お金がないのがつらすぎて、パンを四つヤケ買いした。そのお金で数日分の食費になると思うとか考えてることに泣けてくる。

腹が減りすぎてから揚げを買うが、100g300円とかふざけんなとお腹が満ちてから思う。家に帰って食べればよかった。でも、空腹は極限状態だった。ふだんならコンビニでおにぎり買うんだけど、安くて腹が満ちるものは炭水化物なのだ。炭水化物摂りすぎてる。ちゃんと飯食うのにお金がかかるのがつらい。

病院もクソ。たった十分だけ耳障りで腹がたつような話をされて、いくら儲けてるんだとか考えてしまう。

金がねえ。

金がないということより、心が貧しくなったり余裕がなくなったりするのがおつらい。でもしっかりタバコは買う。

家に着いて、鍵がなくてへこむ。おちついてない。おちつきたい。はあ。はあー。

『降伏の記録』を読み、寝たのは4時。月初めの夜勤三連続があってから、朝方まで寝れない日が続いている。昨日、「朝フレンチトーストでも作ろうね」と話していたのに、起きたら13時。11時頃に紅茶を入れている音が聞こえたけど、結局起きれなかった。起きたときにはもう出かけていて、ちょっとさみしくなる。

昨日の晩御飯の残りを食べながら、続きを読む。無性に不安がやってくるけど、昨日書いた通り、なすがままよと流す。

ちえさんも言っていたけど、子どもとか、守るものができると人は良くも悪くもそれが拠点になるのだなあと読んでいて感じる。わたしの拠点は、今のところ、わたしの不安にしかない。不安が拠点なのに、その不安を打ち消そうとするので、動けなくなる。だから、不安を残そうともするのだろう。矛盾だらけ。でも、それでいいのかもしれない。

鹿児島に行ったとき、海に入って微妙に溺れたことを思い出す。はじめはシュノーケルをうまく使いこなせなかったから、呼吸のタイミングがつかめず、足場もなく、はじめは「だれかあ」とバタバタしていたけど、誰もいないので静かに背泳ぎで次の足場までたゆたっていく。空しか見えない。岩場までの距離感がつかめなくて、でも前を見たら呼吸ができないから、辛抱して背泳ぎを続ける。さっきはすぐそこにあったのに、時間がかかる気がする。大丈夫かよと思っているうちにようやく足が岩について、立ち上がれる。ほっとした。寄る辺のない不安も、流されているうちにどこかに辿り着くのかもしれない。辿り着いてしまうことが、いいのかどうかもわからないけど。

正直と誠実の違い、寄りかかっているということについて。