クズである理由

仕事や人間関係が続かない理由は、つんでる行動原理を採用していることがわかってきた。トラウマ(機能しなくなった前提)を破壊しないと、死ぬなと思う。どちらかいうとさっさと死にたいですが……。

 

これまでの行動原理

わたしはフレームを確定させることが苦手だから、手っ取り早く、身近な人をフレームにしていた。しかし、身近な人を行動原理にするということは、現実的には不可能。

なぜなら、①その人がどう思っているかは想像するしかなく、絶対にズレが生じるから。②自分がそのことをできない場合があるから。

今まで、これらを考慮に入れていなかったので、①が起きたときは自分のフレーム自体が歪んで動けなくなったし、②のときは自罰的になったり、鬱になったりした。

最もヤバかったときは、自分のキャパや倫理を超えて、想像でしかない<身近な人=行動原理>に従い、それは”自発的に”行ったことであるというアイヒマン状態に陥った。

 

どうやら、人が行動するときには、感情とか意志みたいなものが伴うとされるらしい。

重要なのは、<身近な人=行動原理>は相手を慮ってやっているわけではなく、徹頭徹尾、自分のためでしかない。自分が動くためのプログラムでしかないので、必ずしも感情・意志みたいなものが伴っていない場合がある。というよりは、身近な人に問題が生じていること自体に対しては感情みたいなものが発生するとしても、それを対処するための行動にはそれがない感じ(厳密には無感情とかありえないが、わかりやすくするために、こういう構造ということにしておこう)。

具体的にあった例としては、好きでもない人と付き合ったときとか。別れ話をしたときに逆ギレされたのが当時はよくわからなかったが、今となっては、わたしはひどいやつだ。

こんな感じで、時間が経つにつれ、①②が発生して、関係が破綻することがある。例に挙げた通り、これまではこういう原理で動いているということに無自覚だったので、「なんで」怒られるのかわからなかった。ただ、相手は怒っているから私が悪いんだろうと漠然と思っていた。タチが悪い。

 

アイヒマンにならないためにはどうすればいいのか。

 

⑴わたしは自己中でバカで、全部自分のためにしかやっていないということを自覚する

⑵誰かのためにやっているみたいな優しい人では決してない、今までたくさんの人を傷つけてきた、それを反省しないといけない

⑶そのために、自分のできることをやって、できないところは調整していく必要がある

⑷自分のためだとするなら、なんのためにやるかを、誰かのためとかに逃げないできちんと考える

 

はい。はー。

 

たぶん、もう一つの問題

上の文章を書いたのは、二週間くらい前なんだけど、⑷が一番ネックであることがわかってきた。

先日、「”自発的に”やってください」と言われて、瞬発的に「ムリだ!」と思ってしまった。

「自分の意志で」「自発的に」何かをしてくださいというお題は、したいこと・欲望・快楽みたいなものが自分にとって明確であることが前提になっている。わたしは、その欲望みたいなものが言語化できない(単純にいえば趣味がないし、楽しいことってよくわからない)から、できないことをやれといわれてるように受け取り、「むりだ〜」って思った。

でも、普段から意識にのぼらないなかで何かはしている。読書はその一つのような気がする。自分の能力は限界を感じていて、それを補うために本を読んでいる。食う、寝るもそうだ。

ただ、生理的欲求以外は、「〜しなければならない」からしていて、「〜したい」からしている感覚がない。わたしのなかには、「〜しなければならない」って言い続けるガンバルゾさんと、「むりだ〜やりたくない〜」って言ってるくずくずがいるんだけど、その対立が激しくなったときに鬱になる。ガンバルゾさんVSくずくずは、先の行動原理のときとも似ている。とにかく、ガンバルゾさんが非常に厄介。

 

「ユウ太は人生と向き合うために、小森に戻ってきたのだろう。

   わたしは逃げて小森にやってきた」(映画『リトルフォレスト』)

 

わたしは市子だ。たぶんいつか、本当に限られた人としかアクセスしないで生活する状況に身を置くんだろうと思う。甘ったれて、こういう考えが生まれるから、そうならないようにする。

今誰かといられる間に、もう少し、快楽の技法を覚えたい。それが鈍いから、<身近な人=行動原理>になって破滅するんだと思う。でもそんなこと十年言ってきたけど、ようわからんよ。快楽と欲望ってなん。この点だけは、考えたところでよくわからん。

ただ、『中動態の世界』を引くまでもなく、明確に言語化された強靭な意志があるから動いているというわけではない。ガンバルゾさんVSくずくずは、能動-受動の二項関係に無理やり落とし込んだときに生じる問題だろう。ただ、そうだとわかったところで、しんどさが変わらない。

 

んまあ、暇なのかな……そんな気もしてきた。

 

この前、身近な人を殺す夢を見た。「うわあ、したくねえ」と思えてよかった。それ以来、ちょっと優しくできるようになった。わたしができることは、みんなのくずくずを大事に守ることだけだと思ってる。くずくずは殺しちゃいけない。

ほんま、こういう有象無象を病気にできたらどんだけ楽かと思うけど、何の救いにもならない。舞城〜。

障害-健常幻想

 介助の憂鬱談義を繰り広げていた最近でしたが、おとといは楽しかった。外出介助のいいところは、一緒に出かけることが仕事になり、介助者も楽しめることだと思う。医療的ケアは気を張るけど、慣れたらどうってことない。

                   *

 わたしが介助のしんどさを語る背景にあるのは、当事者への苛立ちではない。一つは、雇用-労働と障害-健常の二つの権力関係があることが事態を複雑にしていることの指摘。もう一つは、相互排他的にみえる障害-健常の二項対立は、「健常」な全体という観点からは相互依存の関係にあり、それぞれは全体に従属することを通じて分離する。愚痴にしか聞こえないかもしれないけど(実際愚痴だわ)、ここをぶっ壊さない限り、介助が続かないことや介助者が増えないことについて考えることは難しい。

                   *

 介助は基本的に「言われたことを言われた通りにやる」が原則となる。人の生活リズムは、毎日不確定だろう。トイレに行く時間、お風呂に入る時間、寝る時間は決められていない。たとえば、「ハムエッグを作って」といわれたとき、卵は目玉焼きなのか、スクランブルエッグなのか、かけるものは塩こしょうなのか、ケチャップなのか、ハムエッグのイメージはそれぞれに違ってくる。

 このように、介助における仕事内容は確定できず、常に、本人と介助者のやりとりが繰り返されることで決定される。ただ、本人たちも、やるべきことの全てを言語化するのは難しい。「掃除しといて」と言われたとして、どこまでやればいいのだろう。ピッカピカになるまで大掃除すべきなのか、ちょっと掃除機をかければいいのか。わたしは掃除が下手くそなのだけど、風呂掃除をお願いされたときに「浴槽のへりが、ざらついてるじゃん!」と指摘されて、初めて風呂掃除でやるべきことを知った。

 

 互いのイメージの違いが事前に想定できなかったり、そのときの機嫌が悪かったりするときに生じる、仕事内容の曖昧さはディスコミュニケーションにつながる。

 曖昧な状況によってうまくやりとりできなかったときに、それが一労働者としての評価に直結してしまうことはしんどい。しかも介助は一対一だから、理不尽なことを理不尽だといってくれる第三者はその場にはいない。曖昧さがあることを考えにいれず、「自分が悪かったんだ」と言われたことを真摯に受け止めてしまうと、しんどくなってくる。ただ、これは多くの職場で見られることだろう。

 

 さらに、もう一つの重要なレイヤーがある。そのときに「配慮」できなかったことが、障害(者)への「配慮」のなさに直結させられることだ。

 わたしが玄関の看板が倒れてることに気づかないまま、介助に入ったら、そのことについて「困ってる人を助けるのは当たり前でしょ」「当事者意識がないんだか」「言われたこと以外にもやってよ!」とまくしたてられた。その人のことが憎くて、やっていないならそう言われても仕方ないのだが、そんなに単純な話ではない。「言われたこと以外にもやって」は介助という”仕事”における原則と矛盾するが、介助者が”人”として無配慮であるとすることで、介助という仕事の曖昧さが隠蔽される。

 

 ここでは、雇用者-労働者の関係と、障害者-健常者の関係の二重の権力関係が入れ子になっている。それらは固定的なものではなく、状況に応じて、常に変化していく。ここに介助のしんどさがあるのではないか。

 七、八十年代からの障害者運動の流れを踏まえれば、本人たちが雇用者として介助者を雇うことによって、自立生活を始め、介助-被介助の一義的な権力関係を逸脱する契機になったことは重要だっただろう。確かに、わたしは介助で食えてる。

 しかし、仕事の曖昧さは構造的な問題から生じるにも関わらず、障害-健常の問題として解釈することによって、わたしたちはこの二項対立を持続的に生み出す装置となってしまう。単に労働環境が悪いだけなら逃げ出すことは一つの選択肢になるかもしれないが、介助を辞めることはその人の生活が立ち行かなくなることでもある。「死ねというのと同義でしょ」と誰かに言われた。介助においての排除は、誰かを追い出すことではなく、互いを縛る規範をより強固にしていくことにつながる。

 事業所に雇われているなら、こうした複雑さについて話す環境が整っている(べきだ)が、わたしは個人で雇われているだけなので、いろいろ言われると、つらすぎて二日くらい寝込む。へこんだり、逆ギレしたりしてる。

 

 とはいえ、それをどちらかの関係のみにすることも解決策とはならない。それぞれの理由で本人も介助者も困っちゃうなら、その状況を生んでいる枠組みを作り変えないとねって思う。ということを本人にはまだ言えないんだけどね、ガッハッハ。わたしは小さくやってくしかないと思ったので、どでかいことは誰かに任せます。

 

牛すじ

 今日、同居人が仕事帰りにドミニオンを買ってきたので、牛すじカレーを食べてからそれをプレイすることになった。その牛すじはわたしが昼間煮込んでおいたのだけど、柔らかくなるにはレシピ以上に時間が必要だったようで、噛み切れないくらい固かった。カレーの鍋から肉だけ取り出し、別の鍋で、煮込み用に残しておいた半分と一緒に茹でながら、ゲームを始める。

 途中、同居人は疲れたのか休憩を入れたくなったようで、おもむろに鍋を見に行った。だいぶ柔らかくなった肉をつまみぐいしながら、半分はカレーに戻し、残りの半分を煮込みにするために、わたしは包丁を出してデカい塊をぶつ切りにした。

「もっと小さく切ってよ!」

「ほう、こんくらい?」

「いやもっと、貸して、こんくらいでしょ」

「あーわかったー」

「ていうか、それ明日やればいいでしょ」

「おー……そうなの?(どうせ明日やるなら今やればよくね?)」

「どうせ明日いろいろ入れるんだから明日でいいよ」

「そうかー(納得した)。じゃあ今切る必要なかったね」

「うん、なんで切り始めたのかなって思ったよ」

 とまあこんなやりとりがあった。ふだんは柔らかい話し方をするので、ピシーッとした言い方にお疲れなんだなーと思っていた。

 ゲームを終えてタバコを吸っていたときに、唐突に「さっきごめん」と切り出される。「いやいや」と応える。先日同居人が友人と飯を食ったときに、一緒に住んでるとケンカになることもあるだろうと話をしていたそうだ。私たちはケンカをするよりは話し合いになることがほとんどだ。ゲームをしているときは例外で、たまにどっちかが泣く。友人に「ケンカがないなんて、相手が我慢してるだけだー」と言われたそうだが、実際そうでもない。

 ケンカが少ないのは、お互いにそういうことを切り出しにくい性格であることもあるし、相手のことはわからないと思っていることもあるし、怒ったところで伝えたいことが伝わらないと思っているし、理由はいろいろだと思う。そして、ケンカがないわけではなく、話し合いがもたれることはケンカに近いものだと思う。

 お互いにお互いが、状況によっては我慢してしまうことを知っているので、頻繁に「言いたいことあったら言ってくれ」と言い合う。そう言い合わないと、表面的にケンカ的発言(怒りのポーズ)は出ていないが、本当になんとも思っていないのか、はたまた本当は我慢しているのか、判断できないからだ。

 そして、わたしは「言いたいことあったら言ってくれよ」と伝える/伝えられるときに、いつももんやりとした気持ちになる。衝突が起きたわけではないが、それが衝突でありえる潜在性が常に秘められているからだ。今回は、「言いたいことがある」状況は現実には存在しないが、その発言によって、互いの日々のやりとりには「言いたいことがあるのに我慢している」ことが潜在していることを思い起こさせるからだろう。「言いたいことあったら言ってくれ」は、私たちの関係性を維持させるための言葉であると同時に、私たちの関係性が変化しうる潜在性を浮き彫りにするものでもある。

 

かなしいなあ

・何かに対して誠実であることは、必ずしも、そのことを生業にするとかそれを生活の中心にするということではない、はず。言い訳かなあ。そこからドロップアウトすることに罪悪感を覚えたり、降りたことを責任放棄といったりする必要はないとわたしは思う。そう思わない人がたくさんいることは知っているし、わたしもその渦に巻き込まれるけど、わたしは、降りてもいいと言う。

 人と生と死の仕事だから、矛盾ばかりなこの世界は、誠実に考えるほどに立ち止まらずにはいられないはずだ。福祉をやっている少なくない人たちが、素朴に「相手を思いやる」「慈善的」な「優しい」人たちだったりする。でも実際には、わけわからんことばっかりで、イラつくことも多くて、でもそれはどんな人付き合いでもどんな仕事でもそんなに変わらない。なのに、その矛盾をあったかフィルターで覆い隠すくらいなら、ギャーギャー文句言いながらでも考えて、考えて、考え尽くしたい。その種を蒔く。

 

・介護福祉職の人たちに一時間のストライキをすればいいとのツイートを見かけた。ツイート主としては呼びかけでも煽りでもない一言だったのだろうが、わりと拡散されていた。ただ、こういう風に書くと、重度の人たちにとっては命に関わることなので避難轟々になるだろうと思ったが、案の定コメント欄はいろんな意見であふれていた。このツイート主は、高齢者の施設とか介護予防とかに入っている人なのかな。一時間見てなくたって命に関わらない介護と、そうでない介護がある。そもそも、介護って何?

 

・制度として誰かの生を支えることは必要だろう。でも、この人の生を大切にするのに、あの人の身体的・精神的生をないがしろにされるのはやっぱり変だと思うなあ。あの人たちの喜びは最優先されるのに、そのために涙を流す人がいるのは、変なことではないのかなあ。風邪を引くのはそんなにいけないことなのか。自分の生を成り立たせるために、人にのべつまくなしに怒りをぶつけることはそんなに正しいことなのか。まあでもこのようなことも、この世界にはありふれていて、そんなに変わらないことかもしれない。みんな、自分のことを考えている。そうでしかないのかもしれない。

 

・あ〜もうどうでもいいよって気になってくるよ〜。

うじうじしてる

 何かを書いたり、絵を描いたり、写真を撮ったり、服を作ったり、雑誌を作ったり、映画を撮ったり、音楽をしたり……そういうことを楽しいと思うことがあるのだろうか。

 わたしは何にもできない。本を読んでる、うじうじと。

 

「わたしは何者かにならなければならない!」という強迫観念めいた話ではない。人が何かをしているのは、あるとき、たくさんの可能性の中から一つを選んだその結果ではなくて、そこに至るまでの過程で生じた潜在性があっただけの話だと思う。郡司さんの言ってることをこう解釈した。おそらく、わたしはひきこもりポテンシャルは高い。

 かといって、生活礼賛みたいなのもバカバカしい。生きてるだけでいいんだったら、うじうじしてねえよ。これは、最近のアーカイブ系のアートやナラティブセラピー、いくつかの生活史研究にもやもやするポイントだったりする。

 

 ちょうど先ほど、山内志朗さんが近いことをツイートしていた。

 

 「そういう営み」からはすでに離脱した(と思っている)のだけど、介助において、つまり彼女の編集者になるにあたって*1、何をするか、どことつなぐかを考えることは結局、自分が何を楽しいと思うかによるみたいだ。わたしは本を読むのが楽しいけど……一緒に読むか?

 あと、そもそも介助の仕事を「好き」でやっているわけでもない気がしている。これしかなかった。西尾維新*2が小説を書くしかなかったように、介助しかなかった。

 

 少しまとまりがなくなってきたし、まだ考えも途中なのだけど、眺めてみると、人が創造するのは完全なる意志によってコントロールされた結果ではなく、「偶然」とか「結果的にそうなった」とかそのようなものなのかもしれない。けど、「そうであるならば何もしなくていいんだ」は違う。その微妙な隙間を探っていく必要があるのかもしれない。はー、もういやじゃ。

*1:CIL系の介助と違って、介助者の介入する余地が多いのですがこのあたりの話に興味がある人は少ないと思うので割愛

*2:最近読まなくなった