介助の仕事をすこし離れて、パン屋で働いているのですが(どうして?wと聞かれるのだけど、わからないので聞かれても困る)、その仕事を学習していく仕方が違うのが面白い。

 介助は、体調・天気・気分など様々な要因によって、双方の応対が変化してしまう。こちらが体調が悪いとぐるぐる走り回るのはむずかしいし、昨日誰かとケンカしたのが尾を引いていれば、テンションは低く考え込んでいる。ただ、人の抱え方とか体位交換とか固定された工程もある。このジャンルで専門家と名乗ることができるとすれば、その固定化された範囲について、より詳しく知っている人ということになる。

 介助に関しては、限定された範囲を持たない部分が倫理の問題と直結しやすい。以前にブログで書いたけど、学習過程において範囲が限定されないことは、当人の「配慮のなさ」として酌み取られる場合もある。たとえば、関係さえできてくれば、ちょっとしたミスなら「あ〜まちがえた〜」といじってくれる場合もあるし、「まあ次頼むね〜」くらいで済んだりする。一方で、「人間としてクソだから」と捉えられる場合もある。今のところ言われたことはないけれど。

 わたしがしていた介助の仕事では、その日あったことをつらつらと書き留めて、その報告を全員が読めるようにしていた。わたしは、「慣れないのでむずかしいです、まちがえるとくよくよします」と情動の変化についてかなり詳細に記述するようにしていた。限定されない部分について、ネガティブに捉えられると厄介なので避けたかった(悪意はないよアピール)。相手がどのように感じているのか、不安なのか、楽しかったのか、それを伝えることは行為に文脈を作ることのような気がしている。たとえば、ミスをしたときに、単純に事実だけとれば、失敗して、思っていない結果が生じたことになる。だけど、その後反省しているのか、申し訳ないと思っているのか、あんまり気にしていないのか、その人の語りの中で捉えることは、単純な失敗で終わらず、時間の幅をもって受け止めることができる気がする。

 パン屋は、何をするべきかが極めて固定化されているので、こうはいかない。客の出入りによって量的な変化はあれど、基本的に作業工程は決められている。だから、失敗は失敗以外の何ものでもない。さらに、その人がどうして間違えてしまったのか、そのことをどう捉えているのかについて語る機会は極めて少ない。だから、失敗が続くと、「こいつは使えねーな」で終わってしまう。

 わたしがゆるゆると介助を続けているのは、仕事が作業的でなく、ともすれば「使えねーなー」になってしまう状況をめちゃくちゃ肯定したいからなのだろうと思いましたよ。使えないものたちのなかに何があるのか、決められたものからはみ出てしまうものといかに付き合っていくのかを考えることこそが面白いのだろうと思う。こういうのを相対化するために、パン屋やりはじめた気もするね。

金がない

お金がないのがつらすぎて、パンを四つヤケ買いした。そのお金で数日分の食費になると思うとか考えてることに泣けてくる。

腹が減りすぎてから揚げを買うが、100g300円とかふざけんなとお腹が満ちてから思う。家に帰って食べればよかった。でも、空腹は極限状態だった。ふだんならコンビニでおにぎり買うんだけど、安くて腹が満ちるものは炭水化物なのだ。炭水化物摂りすぎてる。ちゃんと飯食うのにお金がかかるのがつらい。

病院もクソ。たった十分だけ耳障りで腹がたつような話をされて、いくら儲けてるんだとか考えてしまう。

金がねえ。

金がないということより、心が貧しくなったり余裕がなくなったりするのがおつらい。でもしっかりタバコは買う。

家に着いて、鍵がなくてへこむ。おちついてない。おちつきたい。はあ。はあー。

単身赴任中の父から「今から帰るけどストレス」と連絡がくる。

これまでいろいろあっただろうに、漫然と父をやってきて溜まってきたものが、距離を置いたことで出てきたのだろう。

母がひどい人というわけではなく、わたしと似て不器用なので、お互いに対話せずここまでやってきてしまったのだとおもう。

離婚したらどうすんのかなあ。父は自由を満喫してくれとおもうけど、母は金銭的に大変だろう。うう。妹がいつか一人暮らしするとなったら、母も一人暮らしするだろう。お金あるのかな。

難しいね。

『降伏の記録』を読み、寝たのは4時。月初めの夜勤三連続があってから、朝方まで寝れない日が続いている。昨日、「朝フレンチトーストでも作ろうね」と話していたのに、起きたら13時。11時頃に紅茶を入れている音が聞こえたけど、結局起きれなかった。起きたときにはもう出かけていて、ちょっとさみしくなる。

昨日の晩御飯の残りを食べながら、続きを読む。無性に不安がやってくるけど、昨日書いた通り、なすがままよと流す。

ちえさんも言っていたけど、子どもとか、守るものができると人は良くも悪くもそれが拠点になるのだなあと読んでいて感じる。わたしの拠点は、今のところ、わたしの不安にしかない。不安が拠点なのに、その不安を打ち消そうとするので、動けなくなる。だから、不安を残そうともするのだろう。矛盾だらけ。でも、それでいいのかもしれない。

鹿児島に行ったとき、海に入って微妙に溺れたことを思い出す。はじめはシュノーケルをうまく使いこなせなかったから、呼吸のタイミングがつかめず、足場もなく、はじめは「だれかあ」とバタバタしていたけど、誰もいないので静かに背泳ぎで次の足場までたゆたっていく。空しか見えない。岩場までの距離感がつかめなくて、でも前を見たら呼吸ができないから、辛抱して背泳ぎを続ける。さっきはすぐそこにあったのに、時間がかかる気がする。大丈夫かよと思っているうちにようやく足が岩について、立ち上がれる。ほっとした。寄る辺のない不安も、流されているうちにどこかに辿り着くのかもしれない。辿り着いてしまうことが、いいのかどうかもわからないけど。

正直と誠実の違い、寄りかかっているということについて。

わからないままにしておく

わっ、と不安がやってきたときの対処の仕方は時が経つにつれて変わってくるものらしい。

高校を卒業するまでは、どう対処すればいいかわからなくて、問題を全く別のことに置き換え、ないことにしていた。

大学に入ってからは、それを過去のトラウマの影響として処理していた。どうしようもないときはガバガバ薬を飲んでなんとかしていた。問題を多少言語化するようになった頃だ。西尾維新ファッカーであることは十年後には恥辱の記憶になるのでしょうけど、必要な時期だったですよ。今でもアワーてなると突然新刊買ってしまうの恥ずかしい。しかも、やっぱり西尾維新だろとか思ってしまうから、更に恥ずかしい。

とはいえ、今は、トラウマとかこれまでの経験がギャーのトリガーになると考えるのは幼いなあとおもう。原因となるひとつのものを手に入れたところで問題は何も解決しないわけで。

今は、問題が問題になってる関係性の組み方を変えた方がいいなぁと思っている。そのネットワークがすこし変わってきたとすれば、それは明らかに近い人のおかげであるので、思考するだけで変わるものでもないのかもしれない。このへんは今のところあんまり救いがないですね。課題。


年取って、こういう状況はわたしにとって地雷というパターンがわかってくると事前に対処することもできる。けど、トラウマ分析をしすぎると、今はその状況でもないのに、再び襲ってくるかもしれないと防御してしまうことが増えた。これはこれで身動きが取れなくなる。

たとえば、その近い人が何しか不機嫌な様子だと、わたしはめちゃくちゃ挙動不審になる。わたしがなんかしたかなとおもうから。そのうちに、わたしのせいではないのかもとわかってきても、その可能性は消えないので、微妙にびくびくしている。

以前それがしんどくて、「よくわからない」と言ったら「なんかあった?って軽く聞けばいいよ、そのときあったことを言うよ」と言われる。なるほどねー。「嫉妬もそうねー、そのときにパッと嫉妬しちゃうわあって言った方が後腐れない」とのこと。発明だねえ。後者は全然うまくできませんが、前者はそれなりにやってる。


ここまでで何を言いたいかまとめると、漠然とした不安を言語化する作業をひと段落させても、日常の小さな不安はころころやってくる。わたしに不機嫌の原因はないのに自分のせいかもと思って不安になることはあると。

そのときの対処は、細かいルール決めも有効なんだけど、わたしがこれから大事にしたいのは、わからないことをわからないままにすることなのだとおもう。


わたしは、なぜかケンカとか不機嫌とかが異様に怖いので、丸く収めようとしがち(かつては自分を出さないことで対処してたので後々残された負荷が高すぎた)。だけど、人と一緒にいりゃあ、そんなこと絶対に起こりうるものだ。

頭で理解していても、なぜか不安とか恐怖が出てくる。矛盾しているので、そう思うことをおかしいとすると、負の感情はもりもり増殖していく。

理解と感覚は別ってことをひとまず受け入れようとおもう。

不安が生じたら、どうにかしたいと思ってしまうんだけど、結局それは人の感情とかをコントロールしようとしているのだとやっぱり思う。この傲慢さも頭では重々わかっている。でも、不安が残るのがしんどくて、態度に出ていたのでしょう。申し訳ない。


わたしは、人のことがわからない。本当にわからない。知りたいと思うのは自由だろうし、その働きかけがときによい方向にいくときもあるだろう。けど、何もかもを全てわかろうとするのはやっぱり支配でしかない。傲慢。自分の不安を押し殺したいだけの身勝手なものだとおもう。

わからないままにするのは、たぶんめちゃくちゃ怖いことなんだとおもう。わかったほうが整理がつく、準備もできる。怖いことは生理的に逃れたくなるものだろう。

でも、本当にわかってることなんてほとんどない。わたしは明日死ぬかもしれないし、明日大地震がくるかもしれないし、朝起きたら65歳になってるかもしれない。頭ではわかってるけど、わたしは全然これらのことをわかってない。納得できてない。だから、シャンプーを買いだめするし、来月乗る飛行機を取ってある。


その不安定な世界に身を委ねることは、とても怖くて、ぷるぷるするけど、それでもまた明日がやってくるのでしょう。