牛すじ

 今日、同居人が仕事帰りにドミニオンを買ってきたので、牛すじカレーを食べてからそれをプレイすることになった。その牛すじはわたしが昼間煮込んでおいたのだけど、柔らかくなるにはレシピ以上に時間が必要だったようで、噛み切れないくらい固かった。カレーの鍋から肉だけ取り出し、別の鍋で、煮込み用に残しておいた半分と一緒に茹でながら、ゲームを始める。

 途中、同居人は疲れたのか休憩を入れたくなったようで、おもむろに鍋を見に行った。だいぶ柔らかくなった肉をつまみぐいしながら、半分はカレーに戻し、残りの半分を煮込みにするために、わたしは包丁を出してデカい塊をぶつ切りにした。

「もっと小さく切ってよ!」

「ほう、こんくらい?」

「いやもっと、貸して、こんくらいでしょ」

「あーわかったー」

「ていうか、それ明日やればいいでしょ」

「おー……そうなの?(どうせ明日やるなら今やればよくね?)」

「どうせ明日いろいろ入れるんだから明日でいいよ」

「そうかー(納得した)。じゃあ今切る必要なかったね」

「うん、なんで切り始めたのかなって思ったよ」

 とまあこんなやりとりがあった。ふだんは柔らかい話し方をするので、ピシーッとした言い方にお疲れなんだなーと思っていた。

 ゲームを終えてタバコを吸っていたときに、唐突に「さっきごめん」と切り出される。「いやいや」と応える。先日同居人が友人と飯を食ったときに、一緒に住んでるとケンカになることもあるだろうと話をしていたそうだ。私たちはケンカをするよりは話し合いになることがほとんどだ。ゲームをしているときは例外で、たまにどっちかが泣く。友人に「ケンカがないなんて、相手が我慢してるだけだー」と言われたそうだが、実際そうでもない。

 ケンカが少ないのは、お互いにそういうことを切り出しにくい性格であることもあるし、相手のことはわからないと思っていることもあるし、怒ったところで伝えたいことが伝わらないと思っているし、理由はいろいろだと思う。そして、ケンカがないわけではなく、話し合いがもたれることはケンカに近いものだと思う。

 お互いにお互いが、状況によっては我慢してしまうことを知っているので、頻繁に「言いたいことあったら言ってくれ」と言い合う。そう言い合わないと、表面的にケンカ的発言(怒りのポーズ)は出ていないが、本当になんとも思っていないのか、はたまた本当は我慢しているのか、判断できないからだ。

 そして、わたしは「言いたいことあったら言ってくれよ」と伝える/伝えられるときに、いつももんやりとした気持ちになる。衝突が起きたわけではないが、それが衝突でありえる潜在性が常に秘められているからだ。今回は、「言いたいことがある」状況は現実には存在しないが、その発言によって、互いの日々のやりとりには「言いたいことがあるのに我慢している」ことが潜在していることを思い起こさせるからだろう。「言いたいことあったら言ってくれ」は、私たちの関係性を維持させるための言葉であると同時に、私たちの関係性が変化しうる潜在性を浮き彫りにするものでもある。

 

かなしいなあ

・何かに対して誠実であることは、必ずしも、そのことを生業にするとかそれを生活の中心にするということではない、はず。言い訳かなあ。そこからドロップアウトすることに罪悪感を覚えたり、降りたことを責任放棄といったりする必要はないとわたしは思う。そう思わない人がたくさんいることは知っているし、わたしもその渦に巻き込まれるけど、わたしは、降りてもいいと言う。

 人と生と死の仕事だから、矛盾ばかりなこの世界は、誠実に考えるほどに立ち止まらずにはいられないはずだ。福祉をやっている少なくない人たちが、素朴に「相手を思いやる」「慈善的」な「優しい」人たちだったりする。でも実際には、わけわからんことばっかりで、イラつくことも多くて、でもそれはどんな人付き合いでもどんな仕事でもそんなに変わらない。なのに、その矛盾をあったかフィルターで覆い隠すくらいなら、ギャーギャー文句言いながらでも考えて、考えて、考え尽くしたい。その種を蒔く。

 

・介護福祉職の人たちに一時間のストライキをすればいいとのツイートを見かけた。ツイート主としては呼びかけでも煽りでもない一言だったのだろうが、わりと拡散されていた。ただ、こういう風に書くと、重度の人たちにとっては命に関わることなので避難轟々になるだろうと思ったが、案の定コメント欄はいろんな意見であふれていた。このツイート主は、高齢者の施設とか介護予防とかに入っている人なのかな。一時間見てなくたって命に関わらない介護と、そうでない介護がある。そもそも、介護って何?

 

・制度として誰かの生を支えることは必要だろう。でも、この人の生を大切にするのに、あの人の身体的・精神的生をないがしろにされるのはやっぱり変だと思うなあ。あの人たちの喜びは最優先されるのに、そのために涙を流す人がいるのは、変なことではないのかなあ。風邪を引くのはそんなにいけないことなのか。自分の生を成り立たせるために、人にのべつまくなしに怒りをぶつけることはそんなに正しいことなのか。まあでもこのようなことも、この世界にはありふれていて、そんなに変わらないことかもしれない。みんな、自分のことを考えている。そうでしかないのかもしれない。

 

・あ〜もうどうでもいいよって気になってくるよ〜。

うじうじしてる

 何かを書いたり、絵を描いたり、写真を撮ったり、服を作ったり、雑誌を作ったり、映画を撮ったり、音楽をしたり……そういうことを楽しいと思うことがあるのだろうか。

 わたしは何にもできない。本を読んでる、うじうじと。

 

「わたしは何者かにならなければならない!」という強迫観念めいた話ではない。人が何かをしているのは、あるとき、たくさんの可能性の中から一つを選んだその結果ではなくて、そこに至るまでの過程で生じた潜在性があっただけの話だと思う。郡司さんの言ってることをこう解釈した。おそらく、わたしはひきこもりポテンシャルは高い。

 かといって、生活礼賛みたいなのもバカバカしい。生きてるだけでいいんだったら、うじうじしてねえよ。これは、最近のアーカイブ系のアートやナラティブセラピー、いくつかの生活史研究にもやもやするポイントだったりする。

 

 ちょうど先ほど、山内志朗さんが近いことをツイートしていた。

 

 「そういう営み」からはすでに離脱した(と思っている)のだけど、介助において、つまり彼女の編集者になるにあたって*1、何をするか、どことつなぐかを考えることは結局、自分が何を楽しいと思うかによるみたいだ。わたしは本を読むのが楽しいけど……一緒に読むか?

 あと、そもそも介助の仕事を「好き」でやっているわけでもない気がしている。これしかなかった。西尾維新*2が小説を書くしかなかったように、介助しかなかった。

 

 少しまとまりがなくなってきたし、まだ考えも途中なのだけど、眺めてみると、人が創造するのは完全なる意志によってコントロールされた結果ではなく、「偶然」とか「結果的にそうなった」とかそのようなものなのかもしれない。けど、「そうであるならば何もしなくていいんだ」は違う。その微妙な隙間を探っていく必要があるのかもしれない。はー、もういやじゃ。

*1:CIL系の介助と違って、介助者の介入する余地が多いのですがこのあたりの話に興味がある人は少ないと思うので割愛

*2:最近読まなくなった

汚れの焦点

 初めて都内で住んだボロい家は、風呂が汚く床もぬめる。たまに実家に帰って一番にやることは何より風呂を沸かすことだった。掃除は動くスペースを作ること程度にしか思っていないわたしにとって、排水口は今でも敵である。あいつは放っておくとすぐにモネラ化する。排水口はマジで怖い。外出中でも排水口を見かけると、焦点をぼかす癖がある。

 仕事先は一軒家なのだが、ある日、ホワイトボードに書いてあった伝言に驚いた。「ネズミ出没注意。窓からちょろちょろっと入ってきます」。ネズミかー。高校に入るまでゴキブリも見たことのなかったわたしにとっては、ネズミは想像上の動物である。ミッキーマウスピカチュウ、あとはトムとジェリーのどっちかか。この前もぐらを初めて見たときに、「もぐらって汚れてるんだな」と瞬間的に思った。土の中を動いているんだから当然なのだが、でも、それは汚れとは違うと思い直した。それまで、汚さについて考えたことはあまりなかったことに気づいた。

 この前遊んだ小学生は、昼食を食べる場所を決めているときに、「XじゃなくてYがいい〜」とお母さんに主張していた。お母さん曰く、「Xのトイレはぼっとん便所だからいやなんだって」。中学のときに新潟の体育館でトイレを使ったときに、初めてぼっとん便所に対面した。底なしの暗闇が怖かった。得体の知れない何かにトイレの底まで引きずり下ろされる気がしたし、なんとなく臭い気がしてずっと息をしないでいた。

 同居人が、シンクを洗うたわしでフライパンをごしごししていて、「いや、ちょっとまって、たわし使うのか」と止めに入ったら「これは油を使ったから、汚れてるでしょ。汚れてるものを洗うのはたわしでしょ」との返事。そういう考えもあるか……。

 

 汚れの感覚はそれぞれである。汚れは、外部と内部の境界なのだろう。堪え難い一瞬のあとに、自分の世界が微妙に揺らいでいく。汚れへの抵抗感は、汚れそのものの否定ではなくて、わたしと思っていた内部が侵略されたことへの驚きなのだろう。汚れとしての外部は完全に受け入れられることはなく、緊張と弛緩のあいだで受け止める。たまにたわしでフライパンを洗ってるシーンを見かけると、先の会話を思い出して笑ってしまう。

 

 人と暮らす、子供を産む、地方に住む、古民家に住む……これらは、おそらく得体の知れない汚さと一緒に住むことではないのか*1。地方でクリエイティブしていくぜ的な記事をみて、思った。インスタグラムで散見される「丁寧な生活」は、生活の外部を編集し、ないことにしている。でも、実際は生ゴミは臭いし、虫は入ってくるし、毎日料理すると疲れてくる。郡司ペギオ幸夫氏の書いたものを自分なりに解釈するなら、その生活にある「徹底した外部」を領土化しないままに、内部だ外部だと言い切らないままに、どうやっていくか。焦点をそらすことや息を止めることのような、その仕方を考えたい。

 

*1:汚れと言えてしまっている時点でそれは結局外部では、という問題は残る。考える。

・ご飯を食べる量がよくわからない。どれくらいお腹が空いていて、どれくらい食べると満腹になるのか。そのためにどれくらいお金を使ってよくて、何を選ぶといいのか。よくわからない。とりあえず百円のおにぎりを食べる。

服を着て着飾ることが苦手だ。化粧をするためにどれくらい早起きしようと考えるうちに、なんでそんなことをするんだろうと問題が変わる。何の服を着ればましに見えるのだろう、そもそもましに見えるってなんだ。足全体が布に覆われているともやもやしてくるので、ハーフパンツを履く。

住むとは何か。家とは何か。帰るとは何か。

不安定な今、ここで、日々たんたんとこなしていく、そのリズムが、ぼんやりしているのだろう。それは飽きるとは違う。そのリズムに鬱屈しているのとも違う。わたしは鈍磨なんだろうなあ。その反動か、定期的に、職人的なものに憧れたりする。

 

・食べる、寝る、着る、帰る、の繰り返される中で生じるリズムは、カオスを泳いでいくためのコスモスを形成する技術なのだろう。

 

「その子のリズムに合わせればいいんだよ」

よく動く人は、一度に四つくらいの音が鳴っている。主旋律は常に流動的に変わる。私は単音がツーと鳴るタイプなので、ごろごろ変わることに驚くのだけど、相手のリズムがわかればチューニングしやすい。初めは、その転調に戸惑い、仲良くなれねえと思っていたけど、そう言われてからすっと受け止めるようになった。人にはリズムがある。

 

・わたしはあまり外に出るのが好きではない。端的に言って嫌い。だから、そのリズムの曖昧さに悩む。食べ物を買わないと。外に出るには服を着ないと。散歩ができない。どこに行けばいいのか、いつどこに帰ればいいのかわからなくて不安になる。歩いた先で倒れたらどうしよう、はああ。歩く前から疲れている。

そのとき考えればいいし、行き当たりばったりにどうにでもなるものだと思う。わかってる。それでも足は重い。いやだなあ。ほんとに。はああ。

 

・社会に提言するとか、誰かの視野を広げるとか、そういう大それたことには興味がないんだと思う。

 

・閉じることは、「開かれているための」技術だ。おっぴろげになることはないが、そこに風を通すこと。それは嵐を、雨を、灰を降らせることでもある。