おろおろと悩み続けること

 この二週間くらい、「あ〜もう死にてえ」と思う機会が減ってきた。それまではもっと頻繁に、深く、死ぬしかないなあに溺れていた感じがする。去年仕事を辞めたときは、生きる屍のようにウテナを見て、ゲロを吐いていたが、突然ぽっくりと「仕事するかあ」と思い立ち、結局ニートだったのは二ヶ月くらいだった。今年の九月にまた一つ仕事を辞めたのだが(わたしは一つの職場に長時間拘束されることと、やっている行為が単純に賃労働としか考えられない状況であることがしんどいとわかってきたので、いくつかの仕事でちまちま稼ぐことにした)、そのときよりなんとも思わなくなったことを怖いなと思ったので書きしたためておきたい。

 怖いと思う理由は、思考の領域が縮減されている感じがするから。働くでも何するでもない虚無マンだった去年の夏に比べると、どうしようもなく悩むのではなく、問題のフレームを設定できるようになっている。これはあまりいい状態ではないように思う。“何かをする”と一つに絞れば動きやすくなるだろうけど、その外にいく想像力や偶然性を逃してしまう感じがするから。一つに絞れたこともないので感覚でしかないけど、「どうしようもないままだが、本を読んで死ぬか」くらいの方がマシではないか。毎日死にたいと言い続けられることは、実は、生への感覚を鋭敏にして、荒波に抗う力の元になっているのではないか。こうやって言語化できてしまうこと自体、どうなんだという気もしているんだけど。

 そうだとすると、わたしが死にてえと思いながらいることは、わたしが生きるということそれ自体でもあるのかもしれない。そのこともあって、金を稼いでいる介助の活動を、アーレントのいう「仕事」の領域に押しとどめたくないと思うのだろう。ここには、考える種がたくさんある。

 それを踏まえて考えるのは、わたしが今していること、およびどのように活動するかについて考えるのは、事後的に言葉にできるものではあっても、今言葉になるものではないのだろうということ。抽象度の高いレベルで、理念的なものを構想する必要はあるかもしれないけど、具体的な問題については、そのとき会った人と状況に応じて、おろおろ悩み続けることしかできない。例えば、「障害者に対して慈善的な関わり方をする」だとか「わたしは○○さん(被介助者)にどうなってもらいたいのだろう」といった問いは、結局独りよがりな自分の欲望にしか行き着かず、あまりに嘘くさい。

 わたしは、フレームを構築するのは苦手だ。ただ、与えられたフレームにどれだけ外部のものを取り入れられるか(どう壊すか、どう変えるか、どう逃げるか、どう最適解を出すか)をずっと悩み続けることだけはできそう。

 

 なんていうことを言葉にして、残すということはどういう意義があるのだろうね。アーチャリーの本を人に勧められて読んで、そんなことを考えた。

 障害や福祉にまつわる本において、病気や障害が存在するということ自体が前提になっていることがあるが(そうでないおもしろい本も多い)、その生は多くのアクターで構成されていると考える方がわたしにはしっくりくる。

 自伝を読む限り、オウムは、社会的に疎外された人たちの集まりだったのだろうし、アーチャリーも心理的な問題を抱えていた。その問題は読み方によれば、発達障害的な要素であり、うつをはじめとする精神疾患だったと解釈することもできるだろうが、それらの病名を、自分を表現する言葉としては使っていない。病者としてアイデンティファイすることよりも、彼女を巻き込んだ政治的で社会的なものの影響の方が大きかったことを示しているだろうし、それを病気と名指すことは、彼女を救わないということでもあるだろう。

 政治的、経済的、精神的、社会的、科学的、家政的な複数のエコロジーの交わる領域について考えるとき、領域を限定しないで自ら言葉を紡ぐことは、一つの実験になりうるのかもしれない。それは、現在の自分を救うといった安直な目的では決してない。祈りのようなものでしかなく、それは自分を真正面から否定してくることもあるだろうし、最終的解決とはほぼ遠く、むしろ解決などなく、ただおろおろと悩み続けるということに賭けることだ。

 

〜今月摂取したものたち〜

フェリックス・ガタリ『精神の管理社会をどう超えるか?――制度論的精神療法の現場から』『精神病院と社会のはざまで――分析的実践と社会的実践の交差路』『三つのエコロジー

戸田美佳子「アフリカに『ケア』はあるか?――カメルーン東南部熱帯林に生きる身体障害者の視点から」『アジア・アフリカ地域研究』、『越境する障害者』

エウレカプロジェクト『E!6』『E!7』

松本麗華『止まった時間 麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記』

ベネディクト・イングスタッド、スーザン・レイノルズ・ホワイト『障害と文化』

篠原雅武『複数性のエコロジー

ジュリアン・シュナーベル潜水服は蝶の夢を見る

『ダイアのA act2』『ぼのぼの(33)』『ベイビーステップ

 彼は、最近お風呂で髪を洗われることがいやで、全力で泣いて抵抗してくるそうだ。トイレもいや、歯磨きもいや。災害用の水を使わないシャンプーを彼が寝ている間にしている。おむつもパンパンになるまで、とりあえず放っている。歯磨きは……まあ生え変わるし、いいかと思っているのだろうか。

 半年前は、使える言葉も少なく、大きな声でウアーと何時間でも泣き叫んでいたが、今はしくしく泣きながらも「ごめんね」「むりなの」などと気を使うような言葉を組み込んでくる。彼がそれをできないことに申し訳なさを感じる必要はおそらくない。でも、彼は親や介助者の顔色をよく観察しているし、自分ができないことをよくわかってしまっている。彼と同い年の人たちに流れる時間の速度が違っていることにもよく気づいている。

 私はトイレで排泄ができる。漏らす前に行くことも大概できる。引きこもっていたときは数ヶ月風呂も歯磨きもできなかった記憶があるが、最近は、さぼりたい日はあるものの、なんとか毎日やっている。何かをできるようになった過程に理由をつけられるとしたら、それは事後的なものでしかなく、できないことに理由なんてない。なんか、できない。その非合理さ、非効率さを非難するのは、あくまで「大人の都合」だ。

 これを前提として、日常生活に必要な行為のいろいろをできないという人たちとどう関わればいいのだろうか。パチンコがやめられない人やアルコール中毒、薬物依存の人たちにそれらをやめろということと、彼らにADL(activities of day living)を強要することはどうちがうのだろうか。

 自分で体を動かせず、知的にも重いとされる人たちの中には、生活していくほとんど全ての行為を介助者のサポートを受けながら過ごしている人がいる。寝返りは打てないし、歯は磨けないし、排泄も一人ではできないし、かゆいところに手を伸ばすことだってできない。しかし、夏場のおむつは蒸れる。だから嫌な顔をする。本当は「放牧」(=吸水マットを敷いて解放すること)してほしい。夏場のおむつは暴力だ。「大人の都合」という暴力であることを隠された介入は常にある。それでも誰かに支えられ、同時にその人のことを支えながら、生活している人がいる。

 あなたも一度、隣の人に一食分食べさせてもらうという経験をするといい。わたしは冷めたごはんがけっこう好き、だからごはんは最後に食べたいのに、三角食べさせられる、スプーンが入り口付近で去っていくから飲み込みずらいなあ。人には人のリズムがある。自分のリズムでできると落ち着く。

 機能的にできるということと、さまざまな理由でできないことは、同じだけ重い。前者を重視して「できるのだからやるのが普通でしょ」というのはわたしにはやっぱり受け入れられない。でも、自分のリズムでできると楽だよ、とは思う。

 自閉症の世界を翻訳する作業は大事だ。でも、彼らはすごいと囃し立てる言説は、ほとんど彼らを介さない場所で生じている。ある人の視点からしたら「ぼくにはこれができない、あいつよりもできない、もういやだ」でしかないことだってある。わたしの言葉はほとんど届かないけれど、それでもわたしができることは、「ぼくはこんなことができるんだぞーへっへっへ」の領域を広げることなのかもしれない。

 大変なことから語るのではなく、すごいんだぞー楽しんだぞーって言うんだ。

 人は脆い。

 

 ある場所で何人かで作っていた制作物の進行が滞っていた。そこに参加している人は「契約」して集まったのではないので、組織だったものからは程遠い。同人みたいなものだ。リードしてきた人が批判を受けるのは真っ当だとして、その人をぶっ壊す土壌を作ることは容易い。周囲は沈黙を守る。役割における責任を追及して、その人の生活を配慮しない。言い訳を許さない。

 こういう状況はいくらでもあるだろう。いじめ、ブラック企業、ハラスメント。相手に配慮することは明文化できないもので、各々の判断に委ねられる。それゆえ、これは組織の規模に関わらず、生じる。

 それでは、互いの様々な背景に配慮するとしよう。そう考えると、相手にもそう言わざるをえない状況があるはずだ。昨日寝ていないかもしれないし、幼少期に親から虐待を受けていたかもしれない、病気で頭が痛むのかもしれない……。そのとき、人はどうやったら壊れずに済むのだろう。

 人と人のあいだには様々なレイヤーがあり、複雑に絡み合っている。家族、友人、恋人、同僚。それが一つではないことに苛立つ一方で、それが複数でないことにまた苛立つ。ここから見えるものと、あそこから見えるものは大きく異なり、同じポイントに立つ誰かが見ようとしない光景もある。

 時間が経てば癒えるという言葉の無力さを思い知る。あと三十分後には死んでいるかもしれないその人に伝えられることはあまりに少ない。案外人は死なないけれど、それと同じくらい簡単に死ぬとも思う。うじゃむじゃに絡み合った網の中で、なんとか這いつくばって、泣き叫びながら生きていくしかないことに、何度泣けば済むのだろう。

 そのとき、どちらの人の側にも誰かがいてくれたらいいなあ。どちらが正しいなんてことは決してないし、誰も決められない。けど、その人たちの痛みだけは確実にある。

20160204

 先月末、映画を観るために突発的に京都に行き、上演時間までふらふら鴨川付近を歩いていたら、小さい子供が「そんなことしたら、わたしもう」とお父さんに言った声が耳に入ってきて驚いた。子供でもこんな言い回しを使うのかと思う一方で、一体お父さんはどんなことをしてしまったのかが気になって、二人の背中をじっと見ていた。

 「そんなことしたら、わたしもう」ーー目の届かないどこかへ行ってしまうのだろうか、お父さんのことを大嫌いになってしまうのだろうか。ただ、お父さんが車のポケットに隠しているチョコを全部食べられてしまうだけで済むだろうか。お願いだから、さみしいから、悲しいから、もう「そんなこと」しないで。口をつぐんだ、その子の隠されたこの一言に、とっさにその言葉が出てきてしまえた幼さに、(本当はただ京都まで足を運んで、そろそろ家に帰りたいと思っていただけなのかもしれないけれど)わたしも遠くまできてしまったなと思わずにはいられなかった。

 二十を二つもすぎた人間がそんなことを言っても、よほどのことでない限り、「それが、あなたの下した決断ならば」と返される。話すことは面倒だ。面倒だというのは、本当は嘘で、誰も聴いてくれないことがさみしくて、悲しくて、人は沈黙を選ぶようになる。

 

 もしもし。君はいま何をしていますか。

 

 人は自分が経験したことのない出来事に遭遇したとき、すでにそのことを経験した人が見つけた答えを知ろうとする。学校に行かず引きこもって、それでもなお社会に復帰した人がいたとしよう。その家族には、おそらく、たったいま引きこもってしまった 子供の話がいくつも舞い込むように出来上がっている。多くの場合、それは本人からではなく、母親から尋ねられる。どうしたら、元に戻りますか、というニュアンスを込めて。それに、その家族の母親の方はこう答えた。「ただ、待つことしかできないんだよねえ」。そうでしょうなあ。ただ、聴くことしか、できませんねえ。しかし、困っている母親は「あなたの家とわたしの家は違うじゃない」と、知りたかった答えがなかったことにがっかりする。

 

 君の目の前には、いま何がありますか。

 

 「勘違いしないでよね」と男の子に言われて、おおっと感じた。それは女の子が使うセリフでしょうと笑ったら、「言ってから、そう思った」と恥ずかしそうにいうその人の「子供」っぽさに、最近いい言い回しを聴くことが多いことに気づいた。

 中学、高校と、暗記科目が苦手だった。文字を一字一句丁寧に読むことが苦痛で仕方なかったから、目がじっと、ゆっくり進んで行くことに耐えられなかった。人の顔色を伺うとか、空気を読むとか、場をまとめるという意味での「大人」らしさはあったが、とにかく耐えることができないところは今でも「子供」っぽいと思う。本を乱読できるのは、ある意味で、心底丁寧に読むことが苦手だから。仕事となれば、話は別だけど、根本的に研究者には向いていないし、詩人には程遠い。言葉は待ってくれないから。でも、聴くために待つことだけをしていたいと、ただ祈るばかりです。

20151108「イケメン×2.5――境界、まなざし、在/不在」で感じた、ひとりごと

 ユリイカ2014年9月増刊号「特集 イケメン・スタディーズ」、同誌2015年4月増刊号「特集 2.5次元」の二冊がきっかけとなって、筒井晴香さんが中心となって主催されたUTCPの企画です。詳しい内容は、そのうち、UTCPのブログで公開されるとのお話でしたので、そちらをご覧ください。

Blog | University of Tokyo Center for Philosophy

 

 全体を通じて、大変面白いセッションでした。こうした回や上の雑誌を通じて、「イケメン」「2.5次元」を批評すること、その意義を問うことが今以上にされていってほしいと陰からひっそり応援させていただきたいという一心です。

 今回心に残ったのは、二・五次元という言葉が表す領域の広さでした。今後の二・五次元関連論考を慎重に読み解くうえで、自分のために議論を整理することがこの記事の目的です。ご登壇された皆さんのお話が面白かったということを前提に、議論し尽くされてなかった点で自分が気になったものだけをメモにしてみました。

 

二・五次元を構造化する

 今使われている「二・五次元」という言葉には、二つの構図が混ざり合っている。

 一つは、二次元のキャラクターが三次元のイケメンの身体に「受肉」し、それをファンダムがまなざす構図。もう一つは、三次元の人間が、なんらかの方法で二次元に近づいていくという構図だ。要するに、三次元から−〇・五するのか、二次元から+〇・五するのか、というベクトルの方向性の違いを指している。ただし、どちらもベクトルの大きさに深い意味付けはない――両方とも、「二次元と三次元の狭間」に存在するという点で共通している。これが、ややこしさの要因ではないだろうか。

 

 岩川ありささんの発表にあった、キャラクターと物語を意味付けする「まなざすもの」たちの話は前者にあたる。言わずもがな、二・五次元ミュージカルもこれにあたる。役者は洗礼を受けて、キャラになる。ステージの構造は、観客にも「観客」という役を与える。その世界を成立させるには、観客も含めた役者がキャラとして受肉することと、それがまなざされることが必要だ。こうして生まれた物語の中で、キャラクターになっていくまでの過程を見守ることになる。

 ただし、明石陽介さんのお話にあった通り、アニメ・マンガ・ゲームを実写化、舞台化することのすべてが、ここで定義されている二・五次元に含まれるわけではない。その差は、役がキャラ≒「器」としてあるかどうかが重要なのかもしれない。今日の話だと、岩下朋世さん(や藤本由香里さん)の考えにつながっていくものだ。*1

 

 三次元から次元を下ろしていく構図は、石田美紀さんの発表にあった、声優CDがわかりやすい具体例になると思う。キャラクターの世界に、自分をのめり込ませる行為のことだ。その媒介となるものは、イヤホンやヘッドフォンであり、ゲームであり、夢小説なのだろう。もちろん、このほかにもたくさんある。

 

乙女ゲームは、なぜ居たたまれないのか

 石田さんは、乙女ゲーム(夢小説も同種だと思う)は居たたまれなくなるのか、という問いに、「能動性を奪われる」ことと「一つの物語に規定される」ことの二つを挙げていた。後者は、BLとの比較から出てきた言葉だ。BLでは、読み手がその物語に事実上介入しない。それゆえ、キャラクター同士の多様な物語を、読み手がいかようにも読み込むことができる。一方で、乙女ゲームは、キャラクターとプレイヤーの恋愛関係に固定されてしまって、なんともいえない気持ちになる、とそのような意図でお話されていたと思う。そこでキャラクターと紡がれる物語が個人的すぎるがゆえに、居たたまれなくなる。

 この点は、時間の短さゆえに議論ができなかっただけだと思うが、乙女ゲームのプレイヤーにもさまざまな受容の仕方がある。まず、プレイヤー名の部分に自分の名前を入れるとは限らない。そして、主人公の女性キャラに感情移入するとは限らない。主人公の友達キャラに感情移入する、もしくはモブの名前を入れることで、主人公たちの成長物語を楽しむという親目線の楽しみ方もある。この話は、この記事がまとまっていると思うので貼っておきます。

【オトナの乙女ゲーム道】第18回:乙女ゲー主人公の「変化」について ― 自己投影の対象から1人のキャラクターへ | インサイド

 

 BLが、キャラクターたちを俯瞰してみる立場や、受けに自己投影する立場など、様々な読まれ方をするのと同様に、乙女系も多様な読み方があることは注意すべき点だろう。

 

キャラになりたい、という欲望

 というような刺激的な議論があって、とても有意義な三時間だった。

 個人的には、石田さんのおっしゃっていた受容者がキャラとなり物語にコミットする欲望を、さらに展開させてみたいと思いました。要するに、この欲望は、受容者の話だけでなく、役者の欲望でもあるのではないか、と思っていたりいなかったりします。

 ユリイカの回し者ではないつもりですが、2015年9月号「特集 男の娘」で、大島薫のインタビューが掲載されています。彼(女)は、キャラになろうとした人だと読み解くこともできそうです。「男の娘」は、ジェンダー/セクシュアリティの問題だけで考えてはいけない。なぜ、人はキャラになろうとするのか――こんな視点から「男の娘」を見ると、同じ回路でイケメンたちの見え方も変わってきたりしないでしょうか。

 キャラになるイケメンと、キャラクターであり続けるイケメンの断絶は、私たちのまなざしの有無だけが生みだしたものなのだろうか。

*1: 二・五次元ミュージカルについてのより詳しい話は、上に紹介した二冊や今回ご登壇なさった方々のお話をご参考ください。この記事では、そこには特に踏み込まないでおきます。